かなり前の遠征。朝4時出発の2泊3日弾丸ツアーで出雲・伯耆・因幡国まで遠征してきました。
最大の目的地は出雲の国は安来にある月山富田城址です。標高190m。
どれだけ険しい山城かは、下記の写真を見てくれればわかります。黄色のところから削平された尾根まで登る。ゲキですぞ。

中国地方の覇者尼子氏の根城。尼子経久の時代に拡大を続け、孫の尼子晴久の代に最大版図〜八カ国の太守〜になっています。最後は晴久の子義久の時に毛利元就によって落城してしまいますが、難攻不落の城として今でも名高いです。
模型はシンプルに作られていますが、小さな廓(削って平坦にした土地)が至る所にあり、それが侵入してくる敵を阻むという強固な作り。
この山城を登りました💫ここに着いたのが10時半。そこから2時間かけて攻略を。

最初は少しばかりの斜面と平坦地ばかりで楽ちん。尼子の家紋が渋くていい。

こんな緩勾配を登っていきますが、登ったところには削平された廓がずらり。ということは押しかけても廓から矢か鉄砲を射かけられ侵入できないという構造。

テレビの歴史番組で見かける山中鹿之助の銅像発見。花の壇と言われているあたりで。

尼子家再興に最後まで寄り添った猛将。「願わくば我に七難八苦を与え給え」と三日月に祈ったことで有名な武将です。尼子再興はならず、上月城の戦いの後、人質になったはいいものの、連行途中で毛利家臣に討たれてしまったという悲劇の武人です。
銅像も祈っている。かっこいい。
途中こんな切岸も。

ずっと切岸が続いていきます。

突然視界に現れたのは山中御殿。
ネットより。
月山の中腹にある山中御殿といわれた建物があったとされる場所です。城主の居館があったと推測され、城内でもっとも重要な場所の一つでした。山中御殿といわれた建物は平地と石垣の上下2段に分かれた構造をしていたと考えられており、広大な曲輪に大規模な石垣が築かれています。
この場所は、本丸を目指す3方面からの登城口が合流する場所で、菅谷口と塩谷口には虎口を確認することができます。御子守口には大手門があったと思われますが、現在は確認することができません。山中御殿下にある後世に造られた池に面した石垣には、後に増築された石垣の痕跡が確認でき、その付近には軍用井戸跡があります。

山中御殿から本丸を望む。おそろしく高い。

石垣がぐるりと回っていましたが、当時はこの上に櫓や塀があったんだろうと思います。往年の姿をQRコードからCGで見れるような城址もあるので検討してほしいね。

本丸がやはり相当高い。ここを登るのかと思うと憂鬱に。登っていく登城路は七曲りと言われている。

七曲り前の廓から下を見ると、大土塁と言われるものが。どでかいです。

このような虎口があちらこちらにある。

こういうところに来ると当時の武者たちがぐいっと近く感じます。苔むした石垣が何とも言えないよ。

そして七曲り。七つ曲がるのかと思ったけど、っもとある。整備されていて意外と楽だったぞ。上に三の丸が見える。


三の丸。ここから二の丸と続いており、堀切が一つあって本丸につながっています。

三の丸からの景色。眼下に広がる雑木は当時はなかったはず。伐採すれば削平された廓がたくさん見えるけど、赤色立体図で我慢しなきゃね。

赤色立体図からの縄張り図。削平された廓が恐ろしくあるのがわかります。これでは侵入しても射かけられてしまう。難攻不落の城と言われただけあるよ。


三の丸から帰り道に。

月山富田城は尾根にある本丸、二の丸、三の丸よりも七曲りまでの道に魅力満載だと感じました。
大内氏による尼子征伐にも落城せず、最後は毛利の兵糧攻めで落城させられたものの守るには最強の城だったようです。
富田城に曲輪が500もあるとリポートされています。500も曲輪があればそこには守備兵がいるということ。行っても行っても敵と遭遇することになり、到底本丸まで到達できない難攻不落の城。だからこそ、攻めに転じて中国八か国の太守にまで成り上がった尼子氏。尼子晴久があと10年存命だったら、中国地方の覇権争いはどうなってたかわからなかったと思います。
月山富田城が如何に屈強か?ぜひ登ってみて。開放的ですごくいいところです★
