城址巡りというルーティーンに、最近は古代史をめぐるというルーティーンもプラスされてまさに青春時代に戻ったかの気分です。
20歳の正月、一人で京都を歩きまくったことがあります。
伏見の寺田屋を根城にし(幕末維新の貴重な現存建物、昔は宿泊できたけど、今はどうなのかな?)、そこから東奔西走。新撰組屯所、岩倉具視隠棲の地、霊山歴史館、池田屋跡地、近江屋跡地、挙句の果ては土佐藩邸、薩摩藩邸跡地まで辿る4泊5日の旅でした。勤王の志士気分で京の都を闊歩したことはとっても深い思い出です。
当時は大工見習い。幕末の志士たちは20代、30代で命を賭して国の行く末を案じ奔走。それに引き換え己は何ぞやと問う時間でした。悩ましき若者だったということですねー。
さて古代史。縄文文化を青森で触れることができました。
三内丸山遺跡。

ボランティアガイドさんについてぐるっと1時間説明を聞いて楽しかったよ!この方、帰りにずっとお話をしていましたが、世紀の大発見三内丸山遺跡が見つかった時は、別で働いていて発掘に携わりたかったけど、今こうしてお話しできるのはすごく楽しいとのこと。
立て看板に石墓とあります。

お墓が見つかった場所は全てこんな円形で復元。骨などが残っていないそうです。その理由は火山灰土で酸性のため、人骨などは残らないそうです。人骨が見つかったら、いろいろと解明できたのにね。

縄文人はゴミを捨てたら、上から土を被せるということをしていたそうです。
それを盛り土と呼び、その中から大量の土器などが発掘されたそうですが、盛り土を切り取った部分をこのように見せてくれています。
土器の破片などが飛び出ているのがわかるよね。

これは住居。土葺き。青森の冬は寒くて長い。そのために土で覆い暖かくしていたという工夫らしいです。

中はこんな風。小丸太を組み合わせてます。

掘立柱建物。使い道が不明ということでしたが、おそらく食料の貯蔵、祭祀を執り行う場所だったのではと。

復元されていましたが、丸太の仕口は蔓で縛ってあります。釘とかない時代だからね。こういう手間のかかる復元しているところが青森県の本気を感じます。

海に近い谷の部分は低湿地となっており、遺物がザクザクでてきたようです。
空気に触れず、水分の中にあったことで保存は良好らしいですよ。

出てきた土器の破片などがそのまま保存されて公開。

巨大な穴も発掘。穴の間隔が4.2Mとのこと。2間強のサイズ感。この中に栗の柱が腐らず残っていたそうです。地中かつ水が多いところにあるものは結構残るね。

この穴から想定した掘立櫓?

復元図もあり。

まだ続くけど、それは次回。大量の遺物が展示されているので写真大量にアップします。
この三内丸山遺跡は、野球場建設最中に見つかったそうです。

三塁側と一塁側の観客席ができてるよ。
建設中止という決断をした当時の青森県知事はすごい英断をされたと思います。
野球場なら試合のある時だけ人が来て、あとは閑古鳥です。冬は誰も来ない。ゼネコンの大反対もあったと思う。違約金も半端なかったと思うけど、縄文人のリアルな暮らしがこれほどまで見事に残る遺跡はそうそうないです。
ここに来たくて青森に行く人も多いはず。外国人もいたよ。町の活性化につながっているのは間違いなし。
こういう政治決断ができる政治家は立派だなと思います。ものすごい圧力があったはず。それをはねのけて貴重な縄文遺跡を遺す。多くの人の喝采があったはず。それを聞いただけでも思い入れが深くなる遺跡です。
